お茶ガバガバ飲むぞ

 今日は課題のレポートを1つ片付けました。文字数は少ないですが、論述式なので、力を使いました。午前中に片付けて、午後は主要科目の復習をしようと思っていたのですが、昼飯にカップラーメン2個も食べてしまい、3時間も昼寝してしまいました。なので今はすごく元気です。寝れそうもないので、深夜まで復習します。

 ようやく復習する態勢が整いつつあります。ブログ投稿は減っていきますが、今後しばらくは勉学に集中していきます。ゴールデンウィークは主要科目の復習、課題図書の読み込み、課題レポートの作成を行います。連休があって助かりました。なければ、もうパンクしてたかもしれません。5月半ば以降は、連休がありません。計画的な復習計画を立てていく必要があるなと思いました。

 最近、美味しいものを食べていないのですが、お茶を飲むようにしています。以前は水を飲んでしましたが、今はお茶のペットボトルをよく買うようにしています。健康に良いということで、始めました。何をするにしても、体は資本ですからね。お茶をガバガバ飲んで、頑張っていきます。
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課題頑張るぞ

 明日で今週の授業が終わり。なので、早く寝ないといけないのですが。夜更かししてしまっています。まあ、リラックスタイムは必要ですからね。

 今日も課題が出されてしまいました。とほほ…。まあ、5月の連休はすることないので、複数の課題に取り組みます。日中は課題、そして夜はDVD鑑賞と、やっていきますか。

 クラスメートも僕と同じ感じで、なんだか戸惑っている感じですね。僕より若い人が多いですけど、なんだがは変わらない部分も大きいです。まだ手探りの関係ですけど、仲良くなるかどうかはともかく、最低限の所は尊重していく姿勢は持っていこうと思いました。

 皆さん、今週もお疲れ様でした。

ドル高が原油安の要因の1つ

 2014年夏頃から、急速な下落に見舞われた原油価格は今も低落基調にあります。原油安の要因はいくつも挙げられます。まずアメリカのシェールオイル産業の台頭があります。原油を大量に輸入していたアメリカの国内で、シェールオイルという原油を近年採掘することが可能となりました。アメリカとしては、大幅に原油の輸入を減らすことができます。アメリカに原油を輸出していた国は、新たな売り先を探す事態に陥りました。原油需給は緩和し、価格下落の動きに働きます。爆発的な成長を遂げてきた中国経済の停滞も要因の1つです。中国経済の著しい伸びに比例して、中国における石油消費は増加していきました。しかし躍進の原動力になった製造業輸出と不動産投機に近年変調が見られます。豊富な人口を背景に、人件費の安さをアピールポイントにして、中国は世界各国のメーカーの工場を集めてきました。しかし年々人件費は右肩上がりに上昇しています。人件費の上昇を抑える役割を果たしてきた「人口増」の動きも、一人っ子政策の影響で、弱まってきています。庶民に不満が高かった不動産価格の高騰に、中国政府は対策に動き出しています。不動産価格は伸び悩んでいます。中国経済は一時的な景気の弱まりでなく、構造的な変容を迫られている時期です。OPECの行動も原油価格の下落に拍車を掛けました。OPEC(石油輸出機構)は2014年、原油価格が下落する中で、原油減産に動きませんでした。OPEC加盟国の多くは原油輸出による外貨獲得で、国家財政を賄っています。一般的に原油価格下落の際は、歯止めをかける為、減産を選択します。原油の出回り量を少なくすれば、原油需給は逼迫化し、価格は上昇していくからです。OPECの意外な行動の理由として、中核メンバーのサウジアラビアが市場シェアを重要視したことがあります。原油価格低下による収入減を犠牲にして、市場シェアを確保します。シェア確保にサウジアラビアを走らせたのは、アメリカのシェールオイル産業の存在です。アメリカのシェールオイル産業は、OPECにとって新たな競争相手の位置づけです。シェールオイルの採掘コストより、原油価格を下げることで、シェールオイル産業を弱体化させる狙いがあります。原油供給の競争相手が減れば、将来的にOPECは原油価格に及ぼす影響力を高めることができます。
*今回記事を作成するにあたり、『週刊エコノミスト』2015年4月28日号「再び原油100ドル越えはある?」(江守哲著)の情報を参考にさせて頂きました。

 加えて、ドル高基調も原油安に働いている要因として、考えられています。2012年まで1ドル=80円台だったドル円の為替は、2015年4月現在1ドル=120円近くまでになっており、大幅な円安方向に動いています。日本の輸出産業を担う企業は、円安の恩恵を受け、売上を伸ばしている。中国の春節時期に、日本の繁華街で見られた中国人観光客による大量購買が話題になりました。円安により日本の商品を以前より「安く」買えるようになったことが大きな背景としてあります。円安の裏返しとして、アメリカの通貨・ドルは高くなっています。アメリカの金融政策を仕切るFRB(米国連邦準備制度理事会)は先進各国の中で、一足先に、2014年に量的金融緩和政策を終了させています。2015年の今年、金利の利上げを図っています。アメリカの金融政策は抑制的になりつつあります。お金は低い金利から高い金利に移動します。未だ量的金融緩和を続行する日本の低金利を避け、利上げするアメリカにお金が向かう動きが形成されています。円安に働く1つの要因になっています。EU通貨のユーロもドルに対して、下落しています。経済不況に喘ぐEU諸国も金融緩和政策をとっている為です。ドルだけが、突出して高くなっている状況です。

 ドルが高くなることで、原油が下落する理屈は簡単です。原油はドルで取引されています。現代社会にとって死活的な商品である原油の取引をドルが担っている背景には、第二次世界大戦以降のアメリカの軍事的、経済的な強さがありました。原油を購入する国にとって、自国通貨高時に、多く購入したい気持ちが働きます。逆に、自国通貨安時には、控えめに購入したい気持ちが働きます。日本の場合、ドル建ての原油を購入する際、円高の1ドル=80円時には沢山購入して、円安の1ドル=120円時には少なめに購入したいと考えます。ドル高つまり他の国における自国通貨安の状況により、原油が「割高」に映っているのです。購買は控えめになります。結果、原油輸出国が、輸入国に配慮して、「今までどおりの価格」で買ってもらえるように価格を低く設定します。例えば日本が、1ドル=80円のドル円の為替時、1バレルの原油を100ドルで購入していたとします。日本は、原油輸出国に1バレルにつき8000円を支払います。しかし急激な円安進行により、ドル円の為替は1ドル=120円になりました。原油価格が変わらずの場合(つまり1バレルの原油価格は100ドルのまま)、日本は原油輸出国に、1バレルにつき1万2000円を支払わなければなりません。対応策として、原油輸出国は、日本の支払額が以前の「1バレルにつき8000円」で済むように、原油価格を下げます。原油価格は、1バレルにつき約67ドルに設定されます。1ドル=120円のドル円の為替下でも、日本の支払いは1バレル約8000円で済みます。原油需給は緩和します。ドル高に向かう動きは、原油価格を下落させる働きを持っているのです。裏返せば、ドル安に向かう動きは、原油価格を上昇させる働きを持っています。ただし、現在の原油価格決定の要因は多岐に渡っています。要因の1つが変化するだけで、原油価格が左右される構造にはなっていません。とはいえ、原油価格という大事な指標を見る上で、ドルとのつながりを意識しておくことは重要と言えます。

復習時間を増やしていくぞ

 さて今日はさっきまで復習をしていました。疲れて、全く捗りません。勉強を舐めていましたね。これは早めに気づいてよかったです。もっと真剣にやらないと、ついていけなくなってしまいます。うん明日から、真剣にやっていきましょう。

 先日、学生時代の先輩から別件でメールがあって、せっかくなので今の境遇を伝えたら、応援メッセージをくれました。嬉しかったです。辛いですが、頑張ろうと思いました。家族以外にも知る人が増えたので、中途半端な形で投げ出すわけにはいかなくなりました。

 とりあえず新生活に慣れて、平日の夜は勉強していく態勢が整いました。これからは平日の夜は復習時間を必ず設けていきます。

今週もはじまったー

 今週もはじまりました。今週からはテストがあったりと、忙しくなりそうです。スケジュール調整は念入りにしていきます。

色々と話せるようになってきました

 今日は色々とクラスメートと話す機会に恵まれました。いざ話してみると、楽しいです。年齢は下のが多いですが、あまり世代差を感じません。良い感じです。負担を掛けあう仲まではごめんですが、刺激し合える仲間なら作っていきたいです。

授業内容の復習時間を確保できない

 授業が進むにつれて、困っているのは復習時間の確保です。とにかく科目数が多いので、その分復習量も増えることになります。未だ少数の科目しか復習していません。ひとつひとつの授業内容についていけるものの、テストに受かるためには、また現場に入って問題なく働くためにも、復習は必要です。しかし復習時間を確保できていません。平日は夕方まで授業があり、終わった後は、早く家に帰りたいです。とはいえ家に帰ったら、全く復習できません。とはいえ周りのクラスメートが夕方残って勉強しているのを見ると、あせりが募ってしまいます。

 でも、ここは落ち着いて、生活に慣れるまでは、無理せずにいこうと思います。徐々に復習時間を確保していき、復習方法も構築していければと思います。医療・福祉系の道に進むことになったので、ブログでも医療・福祉系のことについて書いていきます。真剣に学んだ学科の知識をブログに投稿できるなら、投稿していきます(復習にもなりますし)。もちろんメインはこれまでこだわってきたヤクザ社会ネタや経済ネタなどでやっていきます。

 明日、明後日も授業があり、大変ですが、何とか残り二日頑張っていきます。

通学定期

 この間、通勤定期ではなく、通学定期を買いました。再び、学割が使えるようになりました。とはいえ、学割がきくところが思い浮かびません。まあそんなことに頭を使うよりも、勉強に集中しないといけませんね。ともかく明日からも気合いを入れて頑張る所存です。

極東会の歴史

 祭りの屋台で商売する人達をテキヤと言います。テキヤが集う組織は日本全国に沢山ありますが、その中の最大団体として位置しているのが極東会です。一方で、極東会は1993年から警察当局によって「指定暴力団」として扱われています。ヤクザ組織の一面を持っています。本拠地は東京池袋、構成員880名を抱え、1都1道13県で活動しています(『実話時代』2014年5月号)。構成員の数では数千名以上の構成員を持つビッグ3(山口組、住吉会、稲川会)に及びません。一方、多数の地域における活動実態はビッグ3同様、極東会が広域性を帯びた組織であることを示しています。
*今回記事を作成するにあたり、『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦著、講談社+α文庫)、『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、洋泉社)、『仕事で使えるヤクザ親分の名言』(山平重樹著、徳間文庫)、『劇画 山口組対極東会』(2015年、メディアックス)、『山口組永続進化論』(猪野健治著、だいわ文庫)、『実話時代』2014年5・8月、2015年3月号、『実話時代』号数不明(「山極抗争」の記事が掲載されている号)、公益財団法人 静岡県暴力追放運動推進センターのサイトの情報を参考にさせて頂きました。

 1980年代のヤクザ業界において、地方の独立ヤクザ組織がビッグ3の傘下に入る動きが加速していきます。テキヤ組織が多い東北や北海道においても同様の動きが起こります。北陸になりますが、新潟を拠点にして、伝統テキヤ組織を起源に持つ源清田会は現在山口組・2次団体です。仙台を拠点にして東北で最大のテキヤ組織であった西海家は住吉会の傘下に入りました。しかし独特な要素を持つテキヤ組織にとって、博徒系ヤクザ組織が多数入っているビッグ3との親和性は高いとは言えません。ビッグ3入りを嫌った独立テキヤ組織の「受け皿」の役割を果たしたのが極東会です。

 極東会は武闘派集団と形容されています。極東会が歴史的に組織拡大に至った理由の1つに、好戦性がありました。テキヤ組織の縄張りである「庭場」を多く持たなかった極東会の勢力にとって、他団体の縄張りへの侵出意欲が高かったことが背景にあります。警察能力が高い日本において、現在ヤクザ組織は簡単に抗争を起こせません。つまり警察という「試合をすぐに止める強い審判」がいる状況下です。各ヤクザ組織は、抗争の際、戦闘力を十分に発揮できないのです。また水面下に潜っているヤクザ組織の戦闘力を調べることも容易ではありません。ヤクザ業界で言われる「武闘派集団」とは、現在の戦闘力からではなく、過去の抗争の結果から定義されているのが実態です。けれども「抗争を過去に経験した」ヤクザ組織は、「将来の抗争の可能性」を人々に与えることができます。極東会は山口組と抗争に至ったことがあります。1989年「みちのく抗争」、1993年「山極抗争」です。両抗争とも広範囲で実施されたのが特徴です。山極抗争では、北海道、東北、関東、中部等の広い範囲で40件の抗争が起きました。敵がいない所で抗争は起きません。両団体の広域性を実証した抗争でした。前年の暴力団対策法施行を背景とする警察当局の厳しい介入があり、抗争は5日間で終結しました。

 1994年極東会は直参制を導入します。一般的にテキヤ団体は連合体の形態をとります。連合体とは参加組織が横並びであり、団体の長は参加組織に対して強い権限を持たない組織形態です。一方直参制とは、参加組織を下部団体にして、団体の長を「下部団体の上位者」として位置づける仕組みです。団体の長は、下部団体に対して、強い権限を持ちます。上意下達を具現化させた仕組みです。暴力要素を前面に押し出す組織は、上意下達が強く働く仕組みを好みます。武力行使を巡り是非の意見が出る組織より、トップの即決で武力行使できる組織の方が、抗争を厭わないヤクザ社会では有利だからです。直参制の導入は、極東会がヤクザ組織の色合いを濃くした事を物語っています。また極東会は住吉会と並んで、多数のヤクザ組織が集まる新宿歌舞伎町にて、強固な勢力を誇っています。

 極東会の初代は関口愛治となっていて、関口愛治が極東会を立ち上げた印象を受けます。実際の歴史は少し複雑です。明治時代、飴売りを生業にしていた竹内徳次郎が横浜で“飴徳”という組織を立ち上げました。1921年飴徳出身の桜井庄之助が静岡県沼津市で桜井一家を立ち上げます。関口愛治は桜井一家で修行した後、東京で関口一門を立ち上げます。「飴徳を源流とする組織」として、竹内徳次郎を始祖とする「飴徳グループ」、桜井庄之助の「桜井グループ」、関口愛治の「関口グループ」の3団体が活動していました。3団体は1961年合併して極東愛桜連合会を立ち上げます。極東の名前が入っていますが、関口グループが一時「極東クラブ」と名乗っていた時期があり、そこから組織名に取り入れられたと思われます。しかし1967年警察当局の厳しい取締りの結果、極東愛桜連合会は解散に至ります。

 その後「飴徳グループ」は極東飴徳連合会、「桜井グループ」は極東桜井総家連合会、「関口グループ」は極東桜井一家関口一門という組織名称で、各グループは活動していきます。極東桜井一家関口一門は1990年に極東会と名称を変更します。現在の極東会は関口グループを中心に形成された組織です。よって関口愛治を初代として位置づけているのです。極東桜井総家連合会と極東会は、1993年に警察当局より指定暴力団の扱いを受けます。極東桜井総家連合会は2004年、組織の多くを山口組傘下の複数の組に取り込まれる形で、組織が縮小しました。指定暴力団の扱いも現在、取り消されています。「関口グループ」の一派が独立して、山口組傘下に入った事例があります。三重県に拠点を置いていた「関口グループ」の橋本組は1978年、三重県のテキヤ組織と博徒組織に呼びかけて、三重県内における一大ヤクザ組織を設立します。組織名は愛桜会。発足以降、独立団体(1次団体)として活動していましたが、1990年山口組の傘下に入ります。山口組は愛桜会・橋本達男会長を「舎弟」として迎え入れます。1次団体・山口組の「舎弟」は1次団体内の上層部を意味します。山口組が愛桜会の加入を重要視した証左です。

弘道会はなぜ武闘派と呼ばれるのか

 ヤクザ組織の中でも、「武闘派」と雑誌に称される組織があります。暴力装置を基盤とするヤクザ組織の中でも、際立つ暴力性を有し、ヤクザ社会で一目置かれていることを意味しています。「武闘派」と称されるヤクザ組織の1つに、名古屋に本拠地を持つ弘道会があります。山口組の有力2次団体で、山口組六代目組長・司忍の出身母体でもあります。弘道会の前身組織は、弘田武志を組長とする弘田組です。弘田組は1969年から山口組2次団体として活動していました。1981年山口組三代目組長・田岡一雄が死去します。しばらく1次団体・山口組の後継トップ不在の事態が続きましたが、1984年四代目組長に竹中正久が就任します。しかし四代目組長擁立方法を巡り、山口組内で亀裂が生じます。四代目組長・竹中体制に反対するグループは山口組を脱退、一和会を結成しました。各2次団体の長は二者択一を迫られました。弘田武志は一和会側にいましたが、山口組残留を主張する弘田組若頭・司忍の反対に遭います。結果、弘田武志はヤクザ社会から引退し、弘田組を解散します。旧弘田組を丸抱えする形で1984年に誕生したのが司忍を会長とする弘道会です。1984年に勃発した山口組と一和会の抗争(山一抗争)で、弘道会は山口組側として抗争に参戦します。弘道会三代目会長・竹内照明は山一抗争の活動で服役しています。
*今回記事を作成するにあたり、『山口組の100年 完全データBOOK』(メディアックス)、『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、洋泉社)、『実話時代』2015年1月号の情報を参考にさせて頂きました。

 山一抗争は1989年に、一和会の解散もあり、完全終結します。同年山口組五代目組長に渡辺芳則が就任します。五代目体制の新人事で、司忍は若頭補佐に任命されます。2次団体の長が50~100名ほど集う1次団体・山口組の中で、若頭補佐は上位者に位置付けられます。五代目体制以降、司忍が会長を務める弘道会も山口組内で存在感を大きくしていきます。1990年、弘道会は独立団体・波谷組と抗争に至ります。抗争相手の波谷組は本拠地を大阪に置き、西日本各地に傘下団体を持ち、構成員約300名を有するヤクザ組織です。山波抗争と呼ばれます。弘道会以外の山口組組織も抗争に参加しましたが、主導的な役割を果たしたのが弘道会です。抗争の発端は、1990年6月福岡市内で弘道会下部団体の幹部が波谷組下部団体の幹部に射殺された事件です。背景には、幹部の移籍を巡る争いがありました。報復合戦が起き、抗争期間内で、山口組側が一般人を波谷組幹部と間違って射殺する悲劇まで起きました。抗争は山口組側優位に展開しました。1990年12月波谷組組長・波谷守之が名古屋の弘道会本部に出向き司忍に謝罪、抗争は終結します。波谷守之はヤクザ業界において有名な存在で、元々は広島で活動していました。その後、三代目山口組時代の有力2次団体・菅谷組の傘下に入ります。しかし菅谷組のトップ・菅谷政雄が1977年、山口組から絶縁処分を下されます。絶縁理由はありましたが、背景として、山口組内の派閥争いがありました。以降、菅谷組は1次団体として活動しますが、1981年菅谷政雄の引退と共に、解散します。上部団体・菅谷組に従う形で、波谷守之も山口組から離れました。つまり波谷組は「旧山口組」の組織です。「五代目時代の新興勢力」対「三代目時代の有力勢力」という新旧対決の側面を持っていたのが山波抗争でした。

 弘道会が「武闘派」という性格を強く表したのが2003年に勃発した北関東抗争です。抗争の発火点は、弘道会下部団体・大栗組が栃木県宇都宮市で運転代行業を開始したことです。山口組下部団体が縄張りを持たない関東地方に進出する際、裏社会の中核産業ではなく周辺産業に足場を作る方法が典型的です。繁華街の飲食店や風俗店からのミカジメ料の徴収、繁華街の客を相手にする違法風俗・賭博の営業は、地元ヤクザ組織の利権です。強引に奪い去ることはできません。そこで夜の世界の一端を担う運転代行業から大栗組は参入したのです。しかし宇都宮市をはじめ栃木県の裏社会を牙城とするヤクザ組織・親和会は看過できませんでした。親和会は1次団体・住吉会の下部団体で、古くから北関東に基盤を置いているヤクザ組織です。運転代行業とはいえ、夜の世界に拠点を持たせると、親和会の利権が次第に浸食される可能性があったからです。

 2003年4月18日、大栗組事務所に保冷車が突入し、北関東抗争が始まります。同日、親和会関係者の建物が銃撃されます。翌日4月19日、親和会下部団体の幹部が、組事務所の駐車場で射殺されます。4月21日、再度大栗組事務所にダンプカーが突入します。同日、親和会下部団体の幹部が射殺されます。4月23日には、茨城県にある親和会下部団体の組事務所に、4トントラックが突っ込む事件も起きます。その後5月5日、名古屋市内で弘道会の組員が銃撃され、重傷に遭います。同日、栃木県佐野市内にある親和会下部団体の事務所に男が押し入り、親和会下部団体の幹部2名を射殺します。4月18日から5月5日の抗争を振り返ると、大栗組つまり弘道会側の「暴力性」と「攻撃の早さ」が際立ちます。親和会側の攻撃は、2回の大栗組事務所への自動車車突入と名古屋市内での銃撃です。一方、弘道会側の攻撃は、建物への威嚇射撃とトラック突入、そして幹部4名の射殺です。発端は殺人事件だが、報復合戦は敵対組織事務所や幹部宅への威嚇射撃で終始する抗争もあります。敵対組員の体への銃撃は、多様なリスクを抱え込むので、避けるのです。誤射による一般人殺害の可能性、長期服役を受ける実行組員にかかる負担、報復の連鎖等、マイナス要素が多いです。親和会側が弘道会側の組員の体に向けて初めて銃撃したのは5月5日です。抗争開始日の4月18日から日が経っています。5月5日までに親和会側は幹部2名を射殺されている為、5月5日の弘道会組員への銃撃は、その報復の意味合いが強いです。一方、弘道会側は抗争開始日の翌日4月19日に、親和会幹部の体に向けて銃撃しています。4月19日の時点で、弘道会側に死者は出ておらず、弘道会側の強い暴力性を窺い知ることができます。暴力性を担保している1つが、ヤクザ業界内で充実していると言われる、弘道会の「福利厚生」です。抗争参加組員は長期服役の代償に、留守家族向けの手当、裁判の弁護士費用、出所後の経済的支援を受けることができます。

 親和会側が報復に数日掛かったのに対して、弘道会側は同日内で報復することが多く、弘道会側の「攻撃の早さ」が浮き彫りになります。ヤクザ組織間の抗争における攻撃で、鍵を握るのが情報力です。ヤクザ組織間の抗争は、特殊な戦いです。国対国の戦争のように場所や時間に捉われず武力を幅広く展開することは不可能です。警察当局の警戒体制の下、攻撃機会は少ないです。攻撃対象を的確に把握した情報が重要になります。情報収集の出来が攻撃の成否を分けます。つまり情報収集力に優れていたから、弘道会は「攻撃に至る時間」を短くすることができたのです。通常、抗争後に敵対組織の情報収集をしていたら、攻撃は遅れます。弘道会側の速攻から、抗争前に親和会側の情報を収集していたか、もしくは「情報が素早く上がり攻撃部隊に伝わる」という広域情報網を弘道会側が形成していたことを読み取ることができます。加えて4月18日から5月5日の間、親和会側の攻撃対象が2カ所なのに対して、弘道会側は多岐にわたっていました。弘道会側の攻撃範囲の広さは、情報収集が広範囲に行き渡っていたことを物語ります。情報力の差が、両者の攻撃内容の違いを分けたのです。「十仁会」というスパイ組織が、弘道会内に存在すると噂されています。実際の有無は知りえませんが、「十仁会」の噂が出てくる背景には、弘道会の情報収集力が他団体に比べて突出していることがあります。

 6月に入り、両者は和解し、抗争は終結しました。大栗組の宇都宮市からの撤退が和解の条件とされています。和解の結果、弘道会が損をする形になりました。しかし抗争を通じ、ヤクザ社会内で「武闘派」の地位を弘道会は固くしました。抗争が減っていく中、抗争を多く経験した弘道会は、抗争経験の少ない他団体に比べて、武力的優位性を持ち続けていきます。

五代目山口組東京進出成功の要因

 神戸を拠点にしていた山口組が全国各地に勢力拡大を図った1960年代以降、武力で制圧された地元ヤクザ組織がありましたが、「山口組ブランド」に魅かれ傘下に入る有力地元ヤクザ組織もありました。五代目組長を渡辺芳則とする山口組五代目体制時(1989~2005年)に、北海道から九州に渡る120以上(1989年時点)の2次団体を抱えるヤクザ組織に山口組は膨れ上がっていました。しかし地域差に偏りがありました。五代目体制時、神奈川県横浜市を拠点にする益田組と浜尾組の2次団体を除けば、関東地方に山口組の2次団体は存在していませんでした。ヤクザ社会で実働的な役割を果たしているのが2次団体です。2次団体が拠点地を公表する狙いとして、該当地域の「縄張りの実効支配者」であることを表・裏社会両方に示すことがあります。

 「縄張りの実効支配者」を鮮明にすることで、縄張り介入を図る他のヤクザ組織を「縄張りを荒らす存在」として正当に非難できるからです。ヤクザ社会においても「他の縄張りを理由もなく侵してはならない」という業界ルールは存在します。「縄張りの実効支配者」を曖昧にしていれば、介入を許してしまいます。山口組2次団体の拠点地の存在は、山口組が実効支配する縄張りの地域を示しているのです。裏返せば、山口組2次団体不在地域の縄張りに、山口組が本格進出していないことを意味しています。
*今回記事を作成するにあたり、『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、洋泉社)、『山口組の100年 完全データBOOK』(メディアックス)、『現代ヤクザのウラ知識』(溝口敦著、宝島社文庫)、『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦著、講談社+α文庫)、『実話時代』2014年6月、2015年2月号の情報を参考にさせて頂きました。

 縄張りと関係なく行えるヤクザ経済活動も存在しますが、ヤクザ組織はまず縄張りを経済活動の基本に据えます。歓楽街におけるミカジメ料の徴収、違法風俗・違法賭博の運営、覚せい剤の売買を優先的に実施できるのは縄張りの管理者です。ヤクザ社会の縄張りとは、歓楽街における違法経済活動の運営・管理権の地理的範囲なのです。江戸や明治時代から関東の各都市を縄張りとしてきた地元ヤクザ組織は、戦後、関東を由来とする広域ヤクザ組織である住吉会や稲川会に加盟しました。住吉会や稲川会等の関東ヤクザ組織9団体は1972年、関東二十日会を結成します。毎月20日に定例会を行う親睦会です。縄張り面において、関東ヤクザが結束して、五代目山口組の侵入を防いでいました。

 しかし実際は、五代目体制以前から山口組は東京に浸食していました。五代目体制以降、その動きが加速化していきます。東京進出の実行部隊となったのが山口組有力2次団体の下部団体(山口組3次、4次団体)です。山口組3次、4次団体にとって、山口組牙城の西日本の都市は、同じ山口組上部団体に居座られています。入り込む余地がありません。とはいえ「山口組」「有力2次団体」の名前借りの対価として、上納金を払う必要があります。自ずと、山口組3次、4次団体は経済規模が桁外れに大きい東京に向かっていったのです。当然、東京の縄張りも関東ヤクザによって占められています。しかし山口組3次、4次団体にとって、同じ山口組上部団体が存在しない東京は心理的に入り込みやすい土地でした。けれども組事務所の形で堂々と拠点を構えることは関東ヤクザを刺激させます。山口組3次、4次団体は、不動産業や金融業の実企業に化けて、東京に事務所を構える方法をとりました。直接経営する方法か、ヤクザ組織の影響力が及ぶ企業いわゆる「企業舎弟」に経営させる方法をとりました。山口組の企業舎弟は、不動産や金融の違法領域で稼ぐ事を目的としました。縄張りの有無に関係なく行える地上げ活動や闇金融活動です。ちなみに地上げ活動は、底地(借地権のある土地)を買い取ることを指します。底地を更地にして他者に売却する際、底地の持主の他に、借地権者の許可も必要になります。昔は、借地権者に底地の売却を応じさせる為の装置として、ヤクザ組織が用いられました。

 山口組の企業舎弟の経済活動は、実業の暗面つまり「昼の世界の違法領域」を主戦場とします。一方、縄張りの経済活動は「夜の世界の違法領域」を主戦場とします。関東ヤクザの利権である「夜の世界の違法領域」に山口組は踏み込まなかったのです。関東ヤクザと被らない仕事を開拓したことが山口組東京進出成功の要因になりました。東京進出に限らず、違法領域における新規事業を立ち上げる力は、他のヤクザ組織に比べて山口組は卓越しています。山口組の強さの源泉の1つです。『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、洋泉社)によれば、五代目体制時における東京都内の山口組の勢力を警視庁が把握したところ「平成八年には六団体・二百三十人、宅見勝若頭射殺事件のあった九年は七団体・二百五十人、十年は十四団体・四百人、十一年は十七団体・四百八十人、十二年は二十団体・五百人、十三年は二十五団体・六百六十人、そして平成十四年末には三十五団体・七百五十人となっている」(p.143)と年々勢力が増していったことが分かります。山口組企業舎弟の増長ぶりを象徴するのが、2003年に摘発された山口組2次団体・五菱会(現在の清水一家)の闇金融事件です。
 
 「他の縄張りを理由もなく侵してはならない」というヤクザ業界ルールは確かに存在しますが、ヤクザ組織によっては、武力で縄張りを奪い取ることがありました。個人的な組員間の小競り合いを口実にし、争いのサイズを大きくし、いつのまにか大規模な抗争に発展させる手口です。山口組が得意とする手段です。山口組は基本的に関東地方で武力抗争を控えていました。しかし山口組の東京進出に拍車が掛かかる武力抗争が起きました。八王子抗争です。1990年2月、東京都八王子市内のスナックで、山口組宅見組下部団体の組員と二率会八王子一家下部団体の組員の間で口論が発生しました。口論が発端となり、死者を出す抗争に発展します。前年から始まった五代目体制の若頭(トップ2)となった宅見勝を組長とする宅見組は、山口組有力2次団体の1つでした。二率会は首都圏を基盤に活動する1次団体でした(2001年に解散)。八王子一家は二率会の有力2次団体として、八王子市を縄張りとして活動していました。抗争当初に宅見組下部団体の幹部2名が殺害され、報復として宅見組が二率会の事務所や幹部宅に銃撃をしました。

 上部団体の幹部の話し合いの末、1990年2月のうちに抗争は終結します。ヤクザ社会は「血のバランスシート」と呼ばれる被害の均衡を、抗争終結時に重んじます。両軍、被害が同じ量になれば、抗争終結の話し合いがしやすいからです。幹部2名殺害された山口組側にとって、均衡が合わない段階での終結です。しかし抗争外の領域で、埋め合わせがされました。抗争終結後、二率会側の抗争主体であった八王子一家は、二率会を脱退、稲川会に移籍することになりました。稲川会は1972年から山口組と「親戚団体」の関係を結び、同盟関係を持っています。山口組側からすれば、関東の同盟組織・稲川会に八王子市という縄張りを贈ったことになります。抗争の結果、山口組は縄張りを得る事はできなかったものの、稲川会に「貸し」を作ったのです。山口組が稲川会に対し、東京進出への便宜を期待したことは、想像に難くありません。

ベネズエラの外貨管理制度

 南米諸国の1つベネズエラが、原油価格の下落により、経済苦境に陥っています。ベネズエラ経済の脆弱性として、過度な石油依存があります。JETROの情報による2012年ベネズエラ経済の数字(アメリカドルで換算)が示しています。輸出額97340百万ドルの内、石油部門輸出額は93569百万ドルであり、輸出額比の石油部門割合は96%です。ベネズエラの輸出品目は石油に偏在していることが分かります。名目GDP総額は381286百万ドルであり、名目GDP比の輸出石油部門割合は25%です。ベネズエラは石油輸出で経済を賄っています。ベネズエラにとって残念なのは、ベネズエラの裁量のみで、原油価格が決定しないことです。中東諸国、ロシア、アメリカ等他の産油国の動向、原油輸入国の需要具合、世界情勢など、複合的な要因によって原油価格は決定されています。近年1バレル=100ドル付近で推移して原油価格が、現在は1バレル=50ドル付近まで下落しています。背景には、アメリカ国内におけるシェールオイルの増産、中国経済の成長鈍化があります。ベネズエラにとって、最大の輸出品を「半額」にして販売せざるをえない状況下です。石油輸出は多くの外貨をベネズエラにもたらしてきました。しかし裏返せば、外部環境によって経済の浮沈が決まることを意味します。ベネズエラ経済は危うい構造によって形成されています。
*今回記事を作成するにあたり、『週刊エコノミスト』2015年3月31日号「ベネズエラ危機の真実 デフォルト回避が国民生活を圧迫」(松浦健太郎著)、JETRO(日本貿易振興機構)サイトを参考にさせて頂きました。
 
 原油価格の下落により、ベネズエラにおける外貨収入の激減が予想されます。輸入時の決済に苦労します。ベネズエラ政府は独自の外貨管理制度により、外貨流出の防衛に取り組んでいます。通常1つの為替レートを採用しますが、ベネズエラ政府は3つの為替レートを採用しています。1つ目は、基礎食料品やトイレットペーパーなどの生活必需品を輸入する場合、ベネズエラの輸入業者は「1ドル=6.3ボリバル」レートで、中央銀行からドルをもらう方法です。2つ目は、自動車部品や医療機器部品を輸入する場合、「1ドル=約12ボリバル」レートで交換される方法です。3つ目は、贅沢品等を輸入する場合、「1ドル=約185ボリバル」レートで交換される方法です。実際の通貨価値を表すのに最適な仕組みは、変動相場制です。通貨ボリバルを変動相場制で見た場合、「1ドル=約185ボリバル」のレートが近いです。もし変動相場制を採っていれば、国民は1ドル分のトイレットペーパーを約185ボリバルで購入しなければなりません。しかしベネズエラ政府が人為的に「ボリバル高レート」を採っている為、国民は6.3ボリバルという格安な価格で購入できています。ボリバル高レートの設定は、外貨流出の要因になりますが、国民の不満を小さくするので政治的安定要因として働きます。逆に、外貨流出阻止の役割を果たしているのは、ボリバル安レートの「1ドル=約185ボリバル」です。ベネズエラ国内では、生活必需品と贅沢品の価格差が著しく大きくなっています。
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