極東会の関東博徒系ヤクザ組織との親戚縁組、抗争

 テキヤ組織の極東会は、関東の博徒系のヤクザ組織と親戚縁組をしています。1995年住吉会と親戚縁組(*1)、1996年松葉会と親戚縁組(*2)、また縁組した年は確認できませんが稲川会とも親戚縁組をしています(*3)。しかし極東会は親戚縁組した後に、住吉会と松葉会のそれぞれと抗争に陥っており、友好関係を保つことの難しさが示されています。

 極東会は住吉会と親戚縁組をする前に、抗争を起こしたことがあります。1983年極東関口会(現在の極東会)は住吉連合会(現在の住吉会)との間で、池袋において抗争を起こします(*4)。抗争の主体となった組織は、極東関口会側は2次団体・三浦連合会の下部団体の高橋総業、住吉連合会側は2次団体・幸平一家の下部団体の池田会です(*4)。三浦連合会の後継団体は、現在の松山連合会です。1983年当時の池袋の裏社会は、主に極東関口会と幸平一家によって治められていました(*4)。抗争の要因としては、縄張り争いがあったと考えられます(*4)。1983年10月6日夜、池袋の高橋総業事務所近くにいた二人組の男に警察官4人が職務質問したところ、二人組は逃亡します(*4)。逃亡の際二人組は拳銃で発砲し、付近を歩いていた10代の専門学校生と追跡した警察官に怪我を負わせました(*4)。二人組の1人は現行犯逮捕、もう1人は翌7日池袋署に出頭しました(*4)。2人とも池田会の組員でした(*4)。事務所の近くに拳銃を持った他団体の人間がいたことから、高橋総業は看過できず池田会に反撃します。10月7日早朝、高橋総業の組員が池田会下部団体・木村睦事務所と木村睦幹部宅を銃撃します(*4)。10月7日中に、上部団体の話し合いにより和解となり、抗争は終了しました(*4)。

 抗争は2日間で終わりましたが、実は1978年から両団体の間では、暴力事件が起きていました。1978年池田会側による極東関口会(当時は極東関口一家)組員殺害事件、1979年池田会側による極東関口会系列事務所銃撃事件、1982年双方の事務所が銃撃される事件が起きていました(*4)。幸平一家の中でも池田会という組織が当時の池袋で先鋭的な動きを示しており、受けて立っていたのが極東関口会という対立構図が1983年以前にすでにあったのです。ちなみに幸平一家現総長の加藤英幸は池田会出身です(*5)。加藤英幸自身は歌舞伎町で加藤連合(現在の加藤連合会)という組織を率い、歌舞伎町の中で加藤連合の勢力を拡大させていきます(*5)。加藤連合は歌舞伎町随一の武闘派組織として知られていました。一方、極東関口会の高橋総業の設立者は、現極東会会長の高橋仁です(*3)。高橋総業は高橋仁が26歳の時に設立されました(*3)。

 1995年極東会は住吉会と親戚縁組をします。しかし1998年再び、極東会と住吉会幸平一家の間で池袋を巡り抗争が勃発します(*1)。1998年3月4~6日の3日間の抗争でした(*1)。3月4日夜、東池袋の極東会系幹部が住むマンション部屋に火炎瓶が投げ込まれます(*1)。翌3月5日夜、西池袋の路上にて極東会組員2名が乗用車に乗車中、すれ違った車から銃撃され負傷します(*1)。6日には、4日に火炎瓶を投げ込まれた東池袋のマンション部屋ドアが銃撃される事態が起きました(*1)。自宅への火炎瓶投げ込み、乗車中の車に向けた銃撃から、幸平一家側の過激な攻撃姿勢が浮かび上がります。一方、極東会も反撃を開始します。6日、池袋の住吉会系組長宅と住吉会関係者が以前住んでいたマンション部屋、板橋区の住吉会関係者宅が銃撃されます(*1)。しかし両団体の話し合いにより和解が成立、3月6日にて抗争は終了します(*1)。

 1996年極東会は松葉会と親戚縁組をします。しかし2001年極東会は松葉会と抗争を起こします(*2)。2001年3月11~22日の11日間の抗争でした(*2)。3月11日夜、栃木県真岡市内にある松葉会の2次団体・白土一家事務所近くの路上で、口論の末、白土一家幹部と組員が銃撃される事件が起きました(*2)。幹部は顔などを撃たれており死亡、組員は腹などを撃たれて重傷を負いました(*2)。その後の警察当局の調べにより、口論の末発砲したのは極東会の2次団体・昌栄会幹部の犯行であったことが明らかになります(*2)。松葉会側の反撃は、しばらく経った3月19日にありました(*2)。3月19日昼、東京都新宿区のホテルの玄関前にいた極東会の組員が二人組の男から銃撃され、死亡します(*2)。当時ホテル内では極東会系幹部が警察当局の捜査員から情報収集されており、死亡した組員は幹部の警護役としてホテルの玄関で待機していたところでした(*2)。

 以後松葉会は極東会から、同日の19日夕方真岡市内の松葉会系幹部宅が銃撃、20日夜真岡市内の松葉会系事務所が銃撃、21日未明新宿区の松葉会系事務所が入っているビルが銃撃、21日未明栃木県氏家町の松葉会関係者宅が4トントラックにバックで突っ込まれる、21日夜新宿区の松葉会系事務所が入っているマンションが銃撃、21日夜東京都豊島区の松葉会系組員が住むマンション部屋玄関が銃撃されるという被害を受けます(*2)。19~21日の3日間で、松葉会は6件の攻撃を受けました。受けた攻撃の内訳は「建物への銃撃」5件、「建物への乗用車特攻」1件でした。

 一方、19日以降極東会も松葉会から、20日早朝真岡市の男性宅銃撃(11日事件の犯人である昌栄会幹部妻の実家)、21日未明長野県上田市の極東会系幹部宅壁で弾痕が見つかる、21日早朝真岡市の極東会系組員宅が銃撃される、21日昼東京都調布市の極東会関係者の自宅車庫が銃撃、21日昼東京都小平市の極東会系組員が住むマンション部屋玄関が銃撃されているのが発見される、21日夜新宿区の極東会系組員の自宅がある雑居ビルが銃撃、21日夜千葉県船橋市の極東会系事務所が銃撃されているのが発見されるという被害を受けます(*2)。20~21日の2日間で、極東会は7件の攻撃を受けました。受けた攻撃の内訳は、7件全て「建物への銃撃」でした。

 また21日夜東京都渋谷区のマンションで弾痕が発見、22日早朝新宿区のビルで銃撃の跡が発見されています(*2)。この2件は攻撃対象が不明です。22日以降、両団体による抗争事件は止みました(*2)。極東会と松葉会の間で和解に至った模様です(*2)。19日極東会側から死者が出たことにより、両団体の死者数が同数になったことが、和解に至りやすくなった要因の1つであったと考えられます。また19日以降の両者の攻撃においては、極東会と松葉会とも、短期間で敵方の拠点を広範囲に調べ上げたことが伺えます。

<引用・参考文献>
*1 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p100~103
*2 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p104~108
*3 『実話時代』2016年1月号, p30~32
*4 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p80~83
*5 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』(別冊宝島編集部編、2016年、宝島社), p60~61
スポンサーサイト

極東会の中核組織である松山連合会

 日本最大のテキヤ組織であり、公安委員会により指定暴力団の指定を受けている極東会の中においても、中核となる下部団体が存在しています。現在、極東会は東京池袋に本部を置き、1都1道13県を活動範囲とし、構成員約750名を抱えています(*1)。極東会の中核組織が、新宿を拠点とする松山連合会です。日本でも有数の歓楽街・新宿歌舞伎町には、多くのヤクザ組織が活動していますが、昔から大きな勢力を張っている組織は住吉会と極東会です(*2)。テキヤ組織の極東会ですが、母体となった関口一家は戦後の活動期から、露店の縄張り(庭場)を持っていませんでした(*3)。

 関口一家は地方の露店商売に活路を見出し、都市部においては暴力的手法を用いて露店商売を拡大していきました(*3)。戦後、本拠地の池袋から新宿に関口一家が進出していきます(*3)。太平洋戦争終了から1940年代末まで、生活必需品を売買する闇市が各都市にありました(*4)。池袋や新宿にも闇市がひらかれていました(*4)。闇市の名前が示すように、行政機関が認めていない市場である為、揉め事の解決を行政機関や警察当局に頼む訳にはいきません。闇市の指導・管理に大きな役割を果たしたのが、テキヤ組織だったのです(*4)。闇市が消滅した後も、関口一家は裏稼業の為に、新宿に残り続けていきました。

 戦後、関口一家の新宿進出で大きな役割を果たしたのが三浦周一です(*5)。極東会前会長で、「極東五代目」を名乗る松山眞一(今年89歳)は若かりし頃、三浦周一の組織に入ります(*6)。三浦周一の死去後、1975年、松山眞一が三浦周一の組織を引き継ぎます(*7)。良翌年1976年、組織名称を極東三浦連合会に変更します(*7)。1985年には、また組織名称が極東三浦連合会から眞誠会に変更されます(*7)。1990年松山眞一は極東会トップの会長職に就任します(*7)。松山眞一は1990年代から会長職を退く2015年まで極東会の最高権力者として位置していました。(*8)。眞誠会はその後、松山連合会に組織名称が変更され、現在に至っています。松山眞一の出身母体である松山連合会も自ずと極東会における存在感が増していったことは想像に難くありません。

 松山眞一の跡を継ぎ、極東三浦連合会(眞誠会)を率いたのが池田享一です。1979年、池田享一は極東三浦連合会の会長に就任します(*9)。また1985年に眞誠会に組織名称が変更された後も、池田享一は眞誠会の会長職を長く務めてきました(*9)。1979年、池田享一は極東三浦連合会の機関誌『限りきなき前進』を創刊します(*10)。『限りきなき前進』は、発刊終了の2000年まで、年2~3刊ペースで刊行されていきました(*10)。ヤクザ組織の機関誌としては、長く続いたと言えます。発刊終了の翌年2001年、池田享一は病気により死去します(*11)。松山眞一が極東会会長に就任した1990年、池田享一も極東会の会長代行という役職に就いていました(*12)。池田享一が極東会の中でも重要な役割を果たしていたことが窺えます。

<引用・参考文献>
*1警察庁「平成27年の暴力団情勢」, p28
*2『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫), p297
*3『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p10~11
*4 『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(厚香苗、2014年、光文社新書), p99~103
*5『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』p115
*6 『仕事で使えるヤクザ親分の名言』(山平重樹、2012年、徳間文庫), p145
*7 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』p76
*8 『週刊実話』2015年11月19日号, p41~43
*9 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』p112
*10 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』p110
*11 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』p115
*12 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』p116

極東桜井總家連合会

 かつて極東会と同じテキヤ組織であり、極東会同様「指定暴力団」の指定を公安委員会から受けた極東桜井總家連合会というヤクザ組織がありました。極東桜井總家連合会の初代は、桜井庄之助という人物です(*1)。桜井庄之助の子分の1人が、極東会の初代にあたる関口愛治です(*2)。桜井庄之助は1921年静岡県の沼津で独立を果たします(*2)。しかし1924年、桜井庄之助は36歳で引退します(*2)。桜井庄之助の設立したテキヤ組織(桜井グループ)はその後も活動し続けていきます。

 1961年関口愛治グループを軸に、桜井グループ、横浜の飴徳グループ、山形の研谷一家、三重の橋本組らが参加して、極東愛桜連合会が結成されます(*3)。しかし1964年以降の警察庁のヤクザ組織への取締り強化の結果、1967年極東愛桜連合会は解散に至ります(*4)。1967年以降、桜井グループは極東桜井總家連合会を組織名として、沼津を拠点に活動していきます(*4)。一方、関口グループは、1979年極東関口会を結成、1990年極東会に組織名を変更させ、現在に至っています(*3)。暴対法が施行された1992年の翌年(1993年)、極東桜井總家連合会はテキヤ組織として初めて指定暴力団の指定を受けます(*1)。その後、同年に極東会も指定暴力団の指定を受けました(*5)。

 奥州会津角定一家は、福島県福島市に拠点を置く山口組2次団体の組織です。七代目総長の波入信一は、極東桜井總家連合会の構成員だった時代があります(*6)。波入信一は、福島で実父が親分だったテキヤ組織(奥州桜井一家古市分家波入組)の跡目を実父から引き継ぎます(*6)。2004年、奥州桜井一家古市分家波入組は極東桜井總家連合会に加入します(*6)。しかし後に、極東桜井總家連合会は複数に分裂する事態に陥ります(*6)。波入信一は山口組2次団体の芳菱会(現在の國領屋一家)に移籍、また2009年には弘道会に移籍します(*6)。その翌年の2010年、波入信一は「弘道会の預かり」となっていた奥州会津角定一家が内部昇格する際、奥州会津角定一家のトップに就任することになりました(*6)。

 波入信一が山口組2次団体の芳菱会に移籍する要因となった極東桜井總家連合会の分裂により、極東桜井總家連合会はその後事実上解散に至りました。

<引用・参考文献>
*1 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p163~164
*2 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p10
*3 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p12~14
*4 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p15~16
*5 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p19
*6 『別冊 実話時代 山口組分裂闘争完全保存版』(2016年10月号増刊), p81

極東桜井一家関口代目と極東会

 公安委員会から指定暴力団の認定を受ける極東会は日本最大のテキヤ組織でもあります。極東会は昨年トップ人事を行いました。1990年から約25年会長職に就いていた松山眞一が退き、新会長に高橋仁理事長が就任しました(*1)。極東会において理事長はナンバー2の役職である為、順当なトップ交代人事と言えます。1927年生まれで今年89歳になる松山眞一は「極東五代目」という立場として、現在も極東会に残っています。極東五代目の「五代目」が示すように、極東五代目は代目のあるポジションです。極東五代目は、極東会会長職の代目ではなく、「極東桜井一家関口の代目」です。極東会の前身組織は、極東関口会でした。1990年、極東関口会から極東会に組織名が改称され、極東会の初代会長に就任したのが松山眞一でした(*2)。当時極東桜井一家関口の代目は田中春雄が四代目を務めていましたが、その後1993年4月死去します(*3)。同年10月、極東会会長の松山眞一が「極東桜井一家関口五代目」を継承します(*4)。1998年、名称が「極東桜井一家関口五代目」から現在の「極東五代目」に変更されました(*5)。

 「極東桜井一家関口」は代目だけ付き、会長、総長、組長などの役職名が付いていません。「極東桜井一家関口の代目」は組織のトップを表す名前ではなく、名誉的意味合いの強い名前です。とはいえ、極東会前身組織のトップ達は「極東桜井一家関口」の代目も兼ねていました。極東桜井一家関口初代は1897年生まれの関口愛治です(*6)。若き頃横浜で、桜井庄之助が興した桜井一家のもとで修行した後、東京で自身の関口グループを立ち上げます(*7)。「極東桜井一家関口の代目」に入っている「桜井一家」は、横浜で修行した桜井一家を指しています(*8)。関口愛治が興したグループの名称は「極東クラブ」「極東愛桜会」などと変更していきました(*9)。「極東」の名前は、関口愛治が1927年に設立した「極東秘密探査局」から由来すると言われています(*10)。関口グループは、テキヤ組織の縄張りである庭場を持たず、地方の祭りに遠征して稼ぐテキヤ組織でした(*11)。戦後の混乱期、関口グループは暴力装置を行使して、池袋や新宿で勢力を拡げていきます(*12)。関口グループの新宿進出で行動隊長を担ったのが松山眞一です(*13)。

 1961年、関口グループは全国の他のテキヤ組織と合併し極東愛桜連合会を結成します。極東愛桜連合会の会長に就任したのは1909年生まれの小林荘八です(*14)。関口愛治は極東愛桜連合会においては、総帥の立場でした(*15)。しかし1967年2月、警察当局の厳しい取締りにより、極東愛桜連合会は解散に追い込まれます。旧関口グループは、「関口会」として再活動します(*16)。同年11月、関口愛治が死去します。後を継いだのが、極東愛桜連合会の会長を務めていた小林荘八でした。しかし小林荘八が継承したのは「二代目」ではなく、「三代目」の極東桜井一家関口でした。関口愛治は1930~1939年の間刑期に服しており、その間関口グループを率いたのが1904年生まれの山口城司でした(*17)。組織の功労者である山口城司は1967年当時、病を患い、組織のトップを務める状態ではありませんでした(*18)。山口城司に極東桜井一家関口二代目に名目上継承させた上で、小林荘八が極東桜井一家関口三代目を継承する形がとられたのでした(*19)。山口城司は1970年死去します(*20)。1980年小林荘八は引退し、1918年生まれの田中春雄が極東桜井一家関口四代目を継承します(*21)。1979年「関口会」は「極東関口会」に名称を変更し、1980年極東関口会会長に田中春雄が就任します(*22)。田中春雄は「極東関口会会長」を1980~1990年まで、「極東桜井一家関口四代目」を1980~1993年まで務めました。一方、松山眞一は「極東会会長」を1990~2015年、「極東桜井一家関口五代目(1998年から極東五代目)」を1993~2016年現在まで務めています。両者とも権力者としての晩期、「極東の組織トップ職」を辞めるものの、「極東桜井一家関口」のポジションには居続けています。権力の全面移譲は避ける狙いが背景にあると推測されます。田中春雄が極東会のトップにいた時代、広域ヤクザ組織の寡占化が進み、全国のテキヤ組織は同じ稼業の極東会に入っていきました(*23)。

<引用・参考文献>
*1, 『週刊実話』2015年11月19日号p41
*2 『実話時代』2016年9月号
*3 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p74
*4 同上, p75
*5 『実話時代』2016年9月号
*6 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p26
*7 『実話時代』2014年8月, p54
*8 同上
*9 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p12
*10 同上, p11~12
*11 同上, p10
*12 同上, p10~11
*13 同上, p75
*14 同上, p72
*15 同上, p128
*16 同上, p73
*17 同上, p52,60~63
*18 同上, p73
*19 同上
*20 同上, p71
*21 同上, p74
*22 同上, p16,74
*23 同上, p96

テキヤ組織の縄張り

 祭りや縁日、または平日の道路において物を販売する露店商はテキヤ組織に属しています。日本最大のテキヤ組織である極東会は「指定暴力団」として公安委員会により指定されています。1992年に施行された暴対法は、指定暴力団の構成員に、活動の制限や重い刑罰を科すことを可能にしました。同じく指定暴力団の山口組や住吉会の傘下団体にも、テキヤ組織またはテキヤ組織を源流とするヤクザ組織が存在しています。しかし全てのテキヤ組織つまり露店商の集う組織が、指定暴力団(つまりヤクザ組織)内に収まっている訳ではありません。組織上、ヤクザ組織と関係のないテキヤ組織は存在しています。とはいえ、ヤクザ組織に属さず、出店の際警察や保健所に公的書類を提出しているテキヤ組織でも、稼いだ金額の一部をヤクザ組織に渡す慣例が残っています。濃淡の差はあれ、どのテキヤ組織もヤクザ組織と何らかの関わり方はしているのです。
*今回記事を作成するにあたり『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(厚香苗、2014年、光文社新書)、『現代ヤクザに学ぶ「銭の作り方」』(別冊宝島編集部編、2008年、宝島SUGOI文庫)の情報を参考にさせて頂きました。

 テキヤ組織がヤクザ組織と近接している理由の1つに、テキヤ組織における人を受け入れる際の開放性の高さがあります。前歴に問題がある人でも、本人の意思があれば、受け入れてきました。ヤクザ組織同様、テキヤ組織は一般的な生業に就くことが難しい人の「受け皿」として機能していたのです。1923年の関東大震災や昭和の恐慌時に、生活に困った人達がテキヤ組織に入り、テキヤ組織は拡大していきます。太平洋戦争後の混乱期も、テキヤ組織は失業者を吸収し組織を拡大、闇市の場で活躍しました。社会の混乱期に、困窮する人々を受け入れて、組織の拡大を図ってきたのがテキヤ組織なのです。テキヤ組織は、基本的に成人男性しか加入できません。祭りの露店で働く女性は、あくまでも「協力者」の位置づけとされています。またマスコミにおいては「露天商」と表記されることが多いです。『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(51P)では、「他方のマスコミは、不動産としての店を持っていない商人たちの『天』にさらされた商いと認識しているようである」と述べられています。一方、露店商達は自らを「露店商」と定義して、表記しています。一般社会の世相を伝えるマスコミとテキヤ組織による表記の違いは、現在の一般社会とテキヤ組織の「距離の遠さ」の一端を示しています。

 テキヤ組織の縄張りを「庭場」と言います。庭場の管理には2種類あります。単独のテキヤ組織がある地域の庭場を独占している場合と、複数のテキヤ組織が庭場を共同管理している場合です。東京の下町においては、後者の共同管理が一般的です。複数のテキヤ組織により共同管理される庭場はアイニワ(合庭)と呼ばれています。1つの縄張りを複数の組織で治める方法は、組織間の衝突を生じさせる可能性を持っています。しかしアイニワの存在によって、祭りや縁日の露店商売は魅力を高めることができています。テキヤ稼業は多岐に渡っています。サンズンと言われる組立式の露店で焼きそばやフランクフルトなどを販売する「サンズン」、客に積極的に声を掛けて話芸で商品を買わせる「コロビ」という稼業などがあります。各テキヤ組織は、幅広いテキヤ稼業の全てを網羅している訳ではありません。特定の稼業に特化しています。よって「コロビ」稼業専門のテキヤ組織が独占している庭場の祭りや縁日では、原則的には「コロビ」系の露店しか出ないことになります。露店全体の魅力は低く、客に飽きられていまします。一方、アイニワの場合、複数のテキヤ組織がいるので、「サンズン」系や「コロビ」系の露店、またその他の露店を出すことができます。露店全体の魅力は高く、客に飽きられません。

 アイニワにおいて、重要な仕事が「ミセワリ」という露店の配置です。店の立地条件は、商売に大きく影響を及ぼす要素です。各テキヤ組織にとって妥協できない領域です。また店の配置は、テキヤ組織間の力関係を可視化させてしまいます。『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(145P)によれば、「これは売り上げが良い悪いということのほかに、非日常的な場で、神聖とされる場所と彼らの露店との位置関係に、テキヤ社会全体における自分の立ち位置が反映されることを彼らは感覚的に知っているためだ」と述べられています。よってミセワリは、複数の意味で、重要な行為となります。また庭場は慣習的に形成されて、公にされてこなかった為、各テキヤ組織が認識している庭場の情報は限定的です。各テキヤ組織は管理する庭場と周辺の情報しか持っていません。『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(157P)によれば、「つまり、なわばりというのは組合でも簡単に把握できないほど複雑なものだといえるし、よその集団のことは知らなくても、自分とその周辺のことだけを知っていれば商売に支障がないともいえるのかもしれない。必要のあるときにはしっかりと関わり、信頼関係は築いておく。しかし、過干渉になることは避ける―」と述べられています。テキヤ組織特有の考え方と言えます。
最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール

Author:黒田太郎
FC2ブログへようこそ!

月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR